バトゥプティ村以外に、キナバル山ふもと、ラナウの近郊でも植樹を行いました、その際、忘れることができないことがありました。
植樹で現地で対応してくれたスタッフの一人のシャッツになんとも哀れな人の姿が描かれているのに気がつきました。昼食後にこの絵のことを聞くと、「死の行進」のことでした。おおよ次のような内容でした。
『1941年12月8日に太平洋戦争が勃発し、1942年1月1日には、日本軍が北ボルネオの西海岸のラブアン島を占領しました。
19日には、サンダカンに到達し、以後3年間、日本軍が北ボルネオを支配しました。
当時、サンダカンには、多数のオ-ストラリアとイギリスの兵隊が捕虜として連れてこられ、飛行場建設ための労働力として使われていました。1944年には、米豪軍の反撃が開始され、1945年には、日本軍の第1回のサンダカン撤退が始まりました。この時、470人の捕虜が、遠く150マイル(約260km)彼方のラナウ目指して歩かされました。ラナウまで4週間かかり、疲労のため動けなくなった者、病気に倒れた者は、容赦なく射殺され、遺棄されました。
その結果、日本軍の暴行や虐殺により、かなり減り、313人が生き残ってラナウにたどり着きました。
1945年5月15日、オ-ストラリア軍が南のオランダ領ボルネオ(現在のカリマンタン)に上陸し、サンダカンの街を爆撃し、徹底的に破壊しました。そこで、再び、537人の捕虜による、ラナウ迄の死の行進が行われ、ラナウに到着したのはわずか183人でした。
その後、3回目には、75人の捕虜が死の行進に旅だったが、1人の生存者もいなかったのです。結局、サンダカンの捕虜のうち、2400人が死亡し、終戦時の生存者はわずかに6人だったのです。』

(話を聞いている若者達)
私自身はもとより、初めて聞いた数人の学生さん達も、日本の国が行った暗い歴史の事実、そのことがあった地に立っていることにびっくりしました。しかもオーストラリアとマレーシアがこのことを長く後世に伝えていくため、毎年サンダカンからラナウ間、260Kmを9日間ほどかけて実際に歩く行事を行っているのです。スタッフが着ていたそのシャッはこのイベントを記念してのものだったのです。
初めは気がつかなかったのですが、滞在先の食堂の入り口の壁に大きく「Welcome Death March Visitors & Friends from Austolia」と看板で大きく掲げられていたました。これは、毎年8月におこなわれるこのイベント用です。また、入り口の廊下の壁にはそのときの様子が大きく掲示されていました。

この事実は日本の学校教科書には載っていないのではないでしょうか。また、私も学校で学んだ記憶はありません。加害者は忘れても、被害を受けたものは決して忘れません。キナバル国立公園のクンガサンには戦争記念公園があり、この事実のモニュメントが整備されているとのことでした。
この事実を現地の人から思わぬことで知らされたのです。知らなかったことにむしろ恥ずかしさを覚えました。
日本軍も悪いことをしましたが、他方では、原住民の教育に努力したり、米の作り方を教えたりした日本兵もいたことも、捕虜ばかりでなく、日本兵も多数ボルネオのジャングルで死んでいったことも事実でしょう。しかし、侵略という歴史的事実はあったし、これを捻じ曲げ、または目をつぶることはゆるされないと思います。過去の事実を知り、学ぶことはこれからの日本を考える上でほんとうに大切なことだと思います。
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